VOICE 来福した旬な著名人にお話を聞いてきました。
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僕は通常、台湾の伝統的なテキスタイルを応用するスタイルでやっているから、今回も同様に久留米絣の技術にそのテキスタイルを応用してやってみたいと思ったんだ。
2年前に一度招待を受けたんだけれど、その当時は参加できなかったんだ。昨年、彼らがまた招待してくれて今回参加することができたんだよ。
説明するのが少し難しいのだけれど、僕の知っている限りでは… BEPPU PROJECTは日本人作家である山出淳也さんという方が構想・企画されて始まったもの。プロジェクト自体は別府の街の再復興のためだと思うよ。今回のイベントのテーマである「混浴」というのは、例えばジンミ・ユーンという韓国籍だけれどカナダに住んでいる作家だったり、韓国人と中国系アメリカ人二人組の作家がいるんだけれど、彼らはソウルに拠点を置いていたりと、そういった国籍や拠点、文化背景の重なりが多様な招待作家を呼ぶことによって、みんなが色々なところから色々な文化を別府に持ってきて「混浴」になる。ミックスされるということだよね。僕もまた、東京生まれでアメリカと台湾で育ち、色々なところへ拠点を移しながら活動しているから「混浴」のテーマを担っているというか。
今回のプロジェクトでは、ふたつの異なる場所に美術作品をつくるということを提案した。ひとつはフェリーの渡船場。確か別府と大阪をつないでいるフェリーだったと思うけれど…。そのターミナルには1日1便のフェリーしか行き来しないんだ。実際に行ってみると、昔は賑わっていたんだろうなという印象を受けると思う。だけど今はあまり使用されていない感じ。そこにBEPPU PROJECTの事務局もあるよ。事務局は部屋4つ分のスペースを贅沢に使っているから、きっと昔は食べものを売っていたりお土産屋さんがあったりしたんだろうね。今でもそのビルはフェリーの渡船場として使用されていて、朝、大阪からフェリーがやってきて、300人の乗客が10分間で下船して一斉にいなくなる。夕方7〜8時くらいには、今度は300人の乗客が別府から大阪に向かうフェリーに10分間の間に乗り込んでいなくなってしまう。朝と夕方のその20分間以外は、渡船場は空っぽなんだ。僕が印象的だったのは、そのフェリーの名前が「ひまわり号」という名前で、フェリーの側面には大きなオレンジのひまわりが描かれていること。(PCでその写真をみせてくれながら)ね、素敵でしょ?(笑)朝、大阪からやってくるフェリーがまるで太陽が昇ってくるようで、逆に夕方には太陽が沈んでいくような。そのフェリーの名前と、朝日が昇って沈んでいくというアイデアが重なっていたこと、公共の場所であり、人が行ったり来たりしていること、時間に関係する場所であること。いろいろな要素があって、この場所にしようと決めたんだ。 もうひとつの場所は、もう少し街の中心の方にある、築100年くらいの古い木造の家。僕がこの木造の家に興味を持ったのは、地元の建築家の方と僕でコラボレーションしないか?という提案があったからなんだ。この家をいっしょに改装するというコラボレーションのアイデアだね。僕はまず、各地域の伝統的な文化にすごく興味がある。日本に限らずね。その中でも特に、日本の伝統的な建築にとても興味を持っているんだよ。だからそのアイデアはとても魅力的だった。この場所を選んだのは、もちろんひとつはこの家が伝統的な建築様式で建てられている日本家屋であることなんだけれど、もうひとつ、プライベート(個人的)で親密な空間だということも重要な要素。渡船場との対比というか。その異なる性格を持ったふたつの場所をあわせてひとつのプロジェクトとするというアイデアが、とても大事なことだったんだよ。 これが家屋の中のふすま絵。ニ間あるんだけれど、その両方に描いたんだ。僕の中で重要だったのは、人々がふたつの異なる場所で、異なる作品との対面の仕方をするということ。もちろん(作品だけでなく)まわりの環境を含めて。ひとつはとても親密で個人的で、時間が止まったような場所。もうひとつはとても公共性のある場所で、人々が動いて通り過ぎていく場所だよね。外国人の僕からすると、お風呂に入るという行為はとても個人的、家庭的なものなんだけれど、「混浴」はプライベートと公共とがミックスされているという印象が強かった。プロジェクトの場所を選ぶときのアイデアはそんなところからきているよ。
上から塗られちゃうよ。
会期後に作品がなくなってしまうことに対しては、別にいいと思っているよ。僕の作品は、建築的な大きさのものが多く、「もの」として保存できるものではないんだ。だから期間限定で特定の期間だけ存在していることがほとんどだよ。春のような(季節が移り変わるような)ものだよね。
そう、この家を最終的にはBEPPU PROJECTの作家さんが滞在制作できるようにと考えているから、全体的にリノベーションしたよ。先ほどのふすまがあった部屋は2階部分。あのニ間は、4畳と6畳という小さな部屋で親密感のあるサイズなんだ。作品をみてもらう際も、人数を制限して中に入ってもらうようにしているよ。ふすまの大きさは、日本独自の畳の大きさと同じ単位で、その大きさが建築的な大きさを確定しているから重要だったんだ。渡船場は、もっと近代的なセメントで造られている。数人しか入れないような家屋とは対照的に、300人の人が使うために造られているんだね。
そうだね。僕の作品はほとんどの場合、スケールの大きなものになるから、何人かの制作チームが居ることがいつも必要になる。今回もチームで制作したよ。
もちろん。どうだった?でしょ?(笑)他の作家が選んでいる場所も、それぞれ性格の違った場所だったのでとても興味深かったよ。例えば19世紀のブルジョアのお家だったり、一般の男性が女性とお茶を飲む場所だったり、1970年代につくられた商店街のアーケードの使われていない店舗をリノベーションして使ったりだとか、本当に多様な場所をそれぞれ選んでやっていた。プロジェクト全体として様々な環境だったり場所だったり、現代美術の体験ができる集合体のようなフェスティバルになっているから、とても面白いと思うよ。
そうだね…すべてかな(笑)それぞれに違う意味で素晴らしかった。パリやベルリン、ニューヨーク、サンフランシスコ、イスタンブール、ベニス、東京でもやったけれど、すべて素晴らしい。2001年にイスタンブールのビエンナーレに参加したときは、4世紀に建てられた教会の中で作品を発表したんだ。2004年の金沢21世紀美術館では、当時は新築だった真っ白な壁に作品をつくった。そんな幅広い環境で、それぞれの都市に関係しながら作品をつくってきて、それぞれが素晴らしい体験だったよ。また今秋には歴史の深い太宰府天満宮での絵馬堂のプロジェクトがあったりと、いろいろと素晴らしい体験をさせてもらっているけれど、そんなたくさんの都市からの招待がいつか途切れてしまうのではないかって日々怯えながら過ごしているよ(笑)どこまでこの状態が維持されるのかな。だから招待がくるうちは楽しまないといけないと思っている。招待される度にすごく感謝しているしね。
アメリカのポップアートの作家で、チャック・クロースという人が言っていた言葉があるんだけれど、インスピレーションはアマチュアの人のためのものであって(プロフェッショナルである)僕たちは、朝起きてスタジオへ向かい、やるべきことをやり遂げるだけだ、と。冗談ではなく本気で、彼の引用はいつも頭にあるよ。ただ、アイデアが偶然ふってくることもたまにあるよ。例えば、2004年にアメリカのセントルイスにある現代美術館に招待された際、その1年前にその美術館に初めて視察で訪れたときのこと。彼ら(美術館のスタッフ)は空港に僕を迎えに来てくれるはずが遅れて来て、「昨夜、美術館で結婚式があったから帰りが遅くなった。それで今日も遅れてしまった」と言った。日本はどうなのかわからないけれど、アメリカなどでは、美術館のような公共な場所をイベントなどの私用なことに貸し出したりするんだよね。結婚式だったり、車のショーだったり。
その「昨夜の結婚式」と美術館の彼らが言ったとき、僕がやりたいのはこれだ!とひらめいた。美術館は僕に、広大なふたつのスペースを使っていいよと個展を開く機会を与えてくれていた。なのでそのひらめきから、その空間で若いカップルが結婚式を挙げるというアイデアを提案したんだ。
ノー。いつも期間限定だよ(笑)事前に新聞広告で、僕のつくる空間を若いカップルの結婚式のために使わせてあげますという募集をかけて、集まったはがきを袋に入れて、展覧会の1ヶ月前にテレビ局に持っていったんだ。テレビ番組で美術館のディレクターが抽選をして、カップルを決めたんだよ。
そう、1組だけ。この結婚式はもちろん、彼らの個人的な行事として執り行われたよ。なので作品の写真としてもらったのは、カップルふたりが写っているものと結婚式の模様、たった2枚だけだったんだ。その式は展覧会のオープニングの前日に行われたので、普通の展覧会の会期中は、床の絵画と窓に施した作品、それに結婚式の模様を伝えている2枚の写真を来場者は楽しんでいたよ。
そうだね、ありがとう。
もうパリではないんだ。今、ヨーロッパ圏内の拠点はブリュッセルだよ。
難しいね!すべてかな(笑)本当にすべての都市だよ。ヨーロッパでは、パリでいちばん長く時間を過ごしているよ。5〜6年間、パリを自分の帰る場所としていたから。パリでの時間はすごく楽しんでいるし、そこで会う人たちもすごく好き。パリが拠点のときは、パリからいろいろな都市へ行って戻ってくるかんじだったから、やっぱり身近に感じるかな。
もちろん住んでいたよ。2歳から8歳まで台湾に住んでいたんだ。生まれてそれまでは東京に居たよ。そのあと少ししてからの2年間と、あと1993年から2000年まで台湾に住んでいたんだ。人生の半分くらいは台湾だね。台湾は、作家としてのキャリアをスタートさせた街でもある。ロサンゼルスに住んでいた頃はほとんど学生として過ごしていて、プロとして、独立して作家の活動を始めたのが台北だったんだ。
10回まではいかないけれど、けっこう来ているよ。初めは1999年、福岡アジア美術館がオープンしたときだったよ。同時にその年にトリエンナーレが開催されていて、その招待作家だったんだ。
福岡では実はあまりゆっくり時間を過ごしたことがないんだ。いつも数日の滞在になってしまうからね。誰かがいつもスケジュールをつめこんで、自由時間をくれないから(笑)(通訳をしてくれているMOMA Contemporaryの山内さんのことですね)だから天神近辺のちょっとしたエリアしかまわったことがないんだよ。でもMONOCLEという雑誌でも、福岡が世界の中でも住みやすい街のひとつだととりあげられていたよね。
たくさんあるよ。多すぎるくらい(笑)まずは今年の9月に福岡アジア美術館のトリエンナーレにまた招待してもらっているんだ。同時期にIMSのアルティアムで個展がある。それに太宰府のプロジェクトも同じ頃だね。カナダのバンクーバーで大きな個展があるから、今準備をしているよ。あとは今年の夏のパリでのプロジェクトが進行中。それに今年以内にニューヨークでのプロジェクトが計画されているよ。
台北に1週間滞在したあと上海で1ヶ月半、そのあとにブリュッセルに行くよ。
もちろんいっしょだよ!上海とブリュッセルの間に、兄の結婚式のためにバリにも行くんだ。
そうだね。今回がすでに2回目の旅なんだ。1回目はブリュッセル。旅行するときはチケットの半券を集めているよ。
子供とできるだけ近いところで過ごして、成長する過程を見届けることかな。もうひとり子供がいて、今11歳なんだけど、彼が生まれてからずっと働き詰めだったからあまり側に居られなかったんだ。だから今回は2度目のチャンスだと思っているよ。
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