VOICE 来福した旬な著名人にお話を聞いてきました。
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グラフィックデザイナー
AFRO FUKUOKAの発行人にして、返り咲きの編集長。でしゃばり市民ランナー「西戸崎のぼる」の中の人としても知られています。
去る2018年10月8日(月祝)に開催されたAFRO FUKUOKA 10th ANNIVERSARY 『千原徹也×秋元梢 ライブペイント&スペシャルトーク』のために来福された千原徹也さん。その2週間前には、自らが愛し続けるサザンオールスターズのトリュビュート野外フェス『勝手にサザンDAY〜みんなの熱い胸さわぎ2018〜』を代々木公園野外音楽堂にて主催したばかり。金髪に大きな黒縁メガネと黒いハットという一目でわかるその個性的な出で立ちと共に、アートディレクション界隈はもちろん、その領域を軽々と超えて様々なかたちで次々と自身の「やりたいこと」を実現し、賑やかな話題を振りまいてくれる千原さんのこれまでと、そしてこれからのお話しを聞かせていただいた。
“映画が好きで学生の時は映画ばっかり見てた”
ー早速ですが、最初に、クリエイティブのお仕事をされるようになったきかっけを教えていただけますか?
千原氏(以下敬称略) 僕は美大とかにいってたわけじゃないので、「アートディレクション」ってこと自体に馴染みが全くなくて、もちろんその仕事に就きたいっていうことも無かったんです。ただ、映画が好きで学生の時は映画ばっかり見てたんですよ。だから漠然と映画を自分の中で仕事にしたいなって思いつつ、まあその中で監督なのか俳優なのか照明さんなのか、みたいなことを考えてたのに気づいたらデザインっていう所に行き着いてたという感じです。
ー実際に職務としてデザインをされるようになったのはいつ頃ですか?
千原 大学卒業して最初の4月に、大阪にあるデザイン会社にバイトで入ったのが最初です。
ーそれまでになにか独学とかでデザインの勉強されてきたとかそういうわけではなく?
千原 全くですね。とにかく大学の時は4年間カルチャーとかそういうものを目で見て吸収してたってだけで特に勉強もしてないので、最初入った会社はとにかくゼロからでした。面接で「自分でMac買うっていう覚悟はある?」って聞かれて、「…買います。」っていう。当時まだめっちゃ高かったんで、それこそ本当に覚悟がいりましたけど、「買って勉強します。」って言って入れてもらいましたね。
ーじゃあ最初からDTPというか、まずはパソコンを使うっていうところからですか。
千原 そうです。全然わかんなかったんですけど、最初の会社はなんだかめちゃくちゃ忙しい会社だったので、教えてくれる時間も無かったし、自分で勉強しなきゃみたいな感じであまり上達もしなくて。ただ、それまで自分でポスター作ってみたいなとか、タイポグラフィで書体作ってみたいなとかをずっと思ってたので、ついにそのマシーンを手に入れた!っていう高揚感みたいなものでなんとかやってたみたいな感じです。
ーちなみにアルバイトとして入ってる時ってどんな業務をされてたんですか?
千原 当時やっぱりまだパソコンもプリンターもそんなにスペックよくないし、デザイナーの人たちが明日のプレゼンテーションの資料だとかを作って、出力をするまでに一晩かかるみたいなことも多くて、それを夜中のあいだ朝までに僕が資料をまとめておくとか、そういう仕事ばっかりでしたね。
“面白いことができるできないに関してそこまで重要視してなかった”
ー実際に千原さんのクリエイティブが世の中に出ていくっていうのはそれからどのくらい後なんですか?
千原 自分のアイデアでクリエイティブが世に出たっていうのはたぶん34歳手前なので、デザインの会社に最初に入社してから12、3年経ってからですね。
ーそうなんですね!思いのほかっていうのはあれですが、下積み時代は結構長いんですね。
千原
そうですね。最初の会社はあまりにも僕が使えなかったんで1年ぐらいでクビになっちゃったんですけど、その後某飲食チェーンのクーポンを作っている会社に入ったんです。クーポンをひたすらMacで作るっていう作業だったんで、そんなに考えなきゃいけないこともなく、僕的にはデザインっていう仕事で食っていけてるだけでいいかなって特に疑問もなくそう思ってました。当時は面白いことができるできないに関してそこまで重要視してなかったと思います。
それに当時たまに友人の古着屋さんとかライブハウスのフライヤーとか、そういうのを作るなかで趣味レベルに楽しめてたらいいかぐらいなものだったですね、正直なところ。だから下積みっていうよりは、なんかそれでいいやと思ってたのが6年ぐらいあったんでしょうね。そこからステップアップしようっていう感じが27ぐらいまではほんと無かったんで。だから何も疑問も悩みも無かった。
“佐藤可士和さんていう人が世の中に現れて、グラフィックデザインにおいてスターみたいな人が出てきた”
ーでは何がきっかけでステップアップしようと思われたのですか?
千原 ソール・バスっていうグラフィックデザイナーがいて、僕は彼が作る映画のポスターやオープニングムービーがすごく好きだったんですよ。あまりに好きすぎて、当時まだDVDとか無い時代にレンタルビデオ屋さんでソール・バスがてがけたオープニングだけを集めたビデオをつくっては友人のカフェで上映して満足する、みたいなことをやってたんです。彼はハリウッドの人なので自分とは違う世界の人すぎて、自分もそんな作品を作りたいとか思う気すら起きないくらい遠い存在という感じで。
でもいつだったか佐藤可士和さんていう人が世の中に現れて、グラフィックデザインにおいてスターみたいな人が出てきたんですよ。それまではグラフィックデザインが好きな人じゃないとデザイナーの名前なんかわからない感じだったけど、業界外の人でさえ「佐藤可士和さんってSMAPのジャケットやってる人だよね」みたいな。その時「あれ?なんかこの仕事ちょっとおもろいかも」って意識が変わった気がします。日本にもそういう人がいるんだっていう。それまで僕は広告の専門誌とか読んだことなかったし、ADCとかJAGDAとか、そういう本も団体も興味がなくて、自分が興味あるのってやっぱり映画から発想されたデザインだったりしてたから、「あ、こういう広告っていう社会があるんだ」っていうのを27ぐらいでやっと知って、やっぱり東京に行こうかなみたいなのがだんだん芽生えてきたっていうか。それで27の時にクーポンをやっている会社を一念発起して辞めたんです。
そしたらその会社の社長が、当時65歳くらいだったと思うんですけど、辞めるって言った時に「俺も昔東京に憧れて頑張った時あったから頑張ってこい」って気持ちよく送り出してくれて。文句も言わないずに、しかもボーナスまで出してくれたんですよ。退職金というか。引越し資金とかにあてろって言って。
ーめちゃくちゃいい社長ですね!
千原 そうなんですよ。社長は奥さんと二人で会社をやってるんですけど、僕は当時まだ海外に行ったことなかったんで、その会社辞めたタイミングで海外にちょっと旅行行こうとフランスに1人で行ったんですけど、その時もその社長の奥さんが空港まで来てくれて、餞別にって10万円も渡してくれて、これで勉強しておいでって。だからなんか恩返ししなきゃなーとかっていうのはありますね。東京行って頑張ってくるって言って出たからには頑張らないとなと。
ーいい話し…。今もそのご夫婦とは交流はあるんですか?今のご活躍、相当喜ばれてるでしょうね。
千原 喜んでくれてますね。僕がいた当時会社には社長夫婦のほかに4、5人いたんですけど、今はもうご夫婦も70を超えられていて他に社員はなく、趣味レベルでやってるよみたいな感じなんですけど。関西に帰った時に電話したり会ったりするとやっぱり喜んでくれてるみたいで、僕も嬉しいですね。
“ファッション広告って面白い”
ーその後上京されて35歳でれもんらいふさんを立ち上げられたわけですが、立ち上げられた時からすでに今のようにお仕事がたくさんっていう状況だったわけではないですよね?
千原
そうそう。上京してすぐ松本弦人さんていう人のところでバイトしたり、博報堂に契約社員で入ったりして、最終的にはストイックっていうファッションを専門にやってるデザイン会社に入ったんですけど、ただやっぱりデザイン好きで佐藤可士和が好きでってなると、ファッション広告はよくわかんないって感じだったんですけど、ストイックにいたおかげで海外撮影とかやりながら、ファッション広告って面白いんだなっていうのがだんだん芽生えてきて。いつの間にかファッションの方が面白くなってきたんですよね。上京して3年くらいの間に。
経験とか実績みたいなものも、大小様々な企業さんのカタログをたくさん作ってたんでなんとなくノウハウもわかってきたし、さて独立しようかなって考えた時に、お世話になったストイックにやっぱり失礼があっちゃいけないし、今いるクライアントさんに仕事を貰うっていうのは違うって思ったのでゼロから営業しよう!という感じでしたね。
ーでは今のクライアントさんたちは千原さんが営業されてこられたんですか?
千原 そうですね。とはいえ、ストイック時代のお客さんから独立した後にご連絡頂いて「千原くん辞めたんだったら、ストイックでやってた案件は渡せないけど、ちょっとこういう新しい仕事だけどどう?」とか「こういうブランドがデビューするからちょっとカタログ手伝って」とか、そういうお話しもちょこちょこいただいたりはありますけどね。
ーそれからもう7周年を迎えられて、スタッフの方もたくさんいらっしゃいますが、みなさんどういう経緯でれもんらいふさんに?
千原 ストイック辞めた時はそもそも一人でやろうと思ってたんですけど、僕の横で僕のサポートをしてくれてた女の子も辞めて着いて来たんですよ。「千原さんに教わって千原さんに憧れてやってきてるから、私もストイック辞めました」って言ってくれて。それと同じ頃に大阪の知り合いだった女の子が東京で勉強したいって上京してきて、という感じで最初はその3人でスタートしたんですが、今は6名在籍してくれています。
“なるべく人との出会いはその場限りじゃなくて次何をやろうかな、やれるかなってことを考える”
ーちなみに千原さんといえば、今回イベントでご一緒していただく秋元さん(モデル:秋元梢)もそうですし、様々な女優さんだったりミュージシャンも含めて、アートワークなど作られたりする中で、作品づくりでの関わりだけではなく、プライベートでも仲良くされている感じがよく伝わってくるのですが、そういうところはなにか意識してそうしてるということはありますか?
千原 特別意識してるっていうよりは、わりとまぁ無意識にやってるのかも。遠ければ遠いほど結んだ時に面白くなるっていうのは、デザインに対しても思ってたりすることで、演者さんが僕のことを「この人と関わっていくことが関係ないな」と思わないようにはしてますね。デザインの発想とかって何かアートとかそういうのを見るところから発想が生まれそうな感じがあるけど、僕は発想として一番多いのはやっぱり人と出会うっていうことが大きいなと思ってて。例えば、女優さんとかほんと1時間の撮影とかだけで出会うこともあるんですけど、やっぱりその最初の挨拶の時考えるのはこの人と一緒に何かクリエイティブをやるとなった時に、何をやったら一番面白いのかなっていうことを考えるようにしています。例えばそれがカメラマンだろうが、広告代理店の営業マンだろうが、その人と何をすれば面白いかなっていう時に新しいアイデアが湧いてくるので、なるべく人との出会いはその場限りじゃなくて次何をやろうかな、やれるかなってことを考えるのが一番意識してることかもしれないですかね。
ーそれにもう1つ、千原さんの作品でとても面白いなと思っているのが、あんまりグラフィックデザインっていうものだったり、アートっていうものだったりっていう、あまりそこの境目を感じないのですが、そこも何か意識されてたりしますか?
千原 ー表現としてのカテゴリはあまりないかもしれないですね。アートディレクションっていう言葉は意外と便利で、アートも入ってるし、伝えるっていうのも入ってるし、全く手を動かさない仕事もひとつだし、細かく絵を描いてっていうのも仕事だから、これから自分がどうなっていくのかなと思った時に、その境目を気にせずやっていった方が、普通なら全く行けないところに行けるんじゃないかなと思えたりするんですよ。先日サザンのイベント(勝手にサザンDAY)とかやってましたけど、あれも表現って言ったら表現だし、アートって言えばアートかもしれないし、グラフィックデザインの新しいあり方って言えばそうかもしれないけど、ただ自分は自分のやりたいことに素直に進んでるだけで。それをカテゴリ分けするのは周りの目だったりとかするかなと。
ーそういう考え方っていうのは、千原さんの考え方としてずっと前からあることなんですか?それとも最近ですか?
千原 最近ですね。昔はむしろ何の仕事するかって時になんでもできると思ってないから、何かをひとつ突き詰めないとダメだと思っていて、自分にとってはそれがグラフィックデザインだったし、必死でただそれしかないって思ってたからこそ逆に何年も細かい作業も耐えられたんだと思います。今思えばその時からたぶんあれもこれもやりたいって思ってたら耐えられてないと思うんで、当時は素直にこれを突き詰める時が自分の将来に結びつくことなんだと、これをずっとやっていくってことなんだろうなと思ってましたね。
“若い時に焦って成功できなかったとしてもいくらでも夢はどこかにあるよっていう風に思ってもらえたらいい”
ー千原さんの中でいろんな考え方の変遷みたいなものがあって、今はクリエイターとしてだけではなく、デザイン塾という場の提供もされていますが、これからデザインの世界に羽ばたくデザイナーの卵の方々にその変遷の中で何を一番お伝えしたいと思っていらっしゃいますか?
千原 なんだかみんな雲を掴むような感じで生きてるじゃないですか。僕もそうだし、特に若い時なんて何が自分が得意で何がやりたいのかっていうが分からなかったりするので、なんかずっと焦ってるって感じ。精神状態がずっと焦ってるけど何から手をつけていいかもわからないみたいな。そういう時期が20代だと思うんですよね。そこでやりたいことをしっかり見つけられた人はすごくラッキーで、それに邁進すればいいだけなんですけど、ずっと見つからないままの人もいるわけですよ。で、その時に諦めるとかなんだかそういう言葉になっていっちゃうんですよ。自分がやりたいことをもやもやしながらじゃあ諦めて主婦になるだとか、普通のサラリーマンになるだとかってなっていくんですけど、僕とかれもんらいふの講師たちが伝えていかないといけないのは、やっぱり夢とかそういうものは、人生のどのタイミングかはわからないけど焦らないでも手に入いるよってことなんです。だから20代のうちに何か掴まなければいけないわけではなくて、50代からでも夢ってしっかり持てるし追える。もうちょっと人生をトータルで考えた上での、人生のペースで物事を考えられるようなそういう気楽な気持ちになってもらえたらいいかなと思っています。
ーなるほど、だからこそなにがきっかけになるかわからないからバラエティ豊富な講師の方々がいらっしゃるということですね。
千原 そうです。グラフィックデザインで生きていこうって自分が思ってたとして、でも自分にはできないかもって悩んでて、でもここまできちゃってるしとか、ほかに何もできないしとか思わなくていいよって。僕みたいに27歳から上京して頑張ることもできるし、出産して子どもがいても復帰してからでもなんとでもなる。なんだかそういう気持ちにさせてくれる人たちを講師にお招きして、あぁこういう道もあるんだなと思ってもらえるといいなと思います。
ーある意味千原さんにとって佐藤可士和っていう存在がグラフィックデザイナーとしてのひとつあり方みたいなものを見せてくれたような感じでいろんなきっかけやモデルケースを提供してるということですね。
千原
そうそう。たとえばMEGUMIちゃんっていう女優・タレントさんも講師として来てくれるんですど、今でこそ彼女は洋服ブランドをしたりだとか、たもんっていうパンケーキ屋を金沢に開店したりしているけど、子育てしてて何もやってない期間もあったわけで。女性は特にどこで子どもを産むかっていう人生の分かれ道みたいなものがあると思うんですけど、人生って長いから、子どもが中学生とかになって自分が50歳になってからでも、そこからでもパンケーキ屋ってできるわけじゃないですか。ものは考えようで、逆に子どもが大きくなったら子どもにもバイトで参加させて、家族で小さくてもパンケーキ屋やるんだっていうのがすごく夢だっていう。それってすごく素敵だなって思うし、50歳からそういうの始めましたっていうそういう奥さんがいたらなんだか憧れるなっていう。20歳の時は別に何もできなかったけど、トータルで考えたらそういう人生もありなんじゃないかなって思えるから、だから若い時に焦って成功できなかったとしてもいくらでも夢はどこかにあるよっていう風に思ってもらえたらいいなと思ってます。
逆に、田中杏子さんっていうNumeroの編集長が講師で来た時に僕がすごく驚いたのが、田中杏子さんはNumero創刊の時に編集長やらないかっていう話が来たと同時に、子どもができたことを知ったらしいんです。普通なら出産があると編集長なんてできないじゃないですか。でも杏子さんはNumeroの創刊と出産を同じペースでやったんですよ。だから同じ年にNumeroも創刊してお子さんも生まれたっていう。で、その話しをしてた時に、杏子さんが「そのどっちもなかったらどっちもできなかった」って言ってるのを聞いて、なんかすごい考え方してるなぁって思ったんですよね。僕なんかは出産イコール仕事ができないっていう固定概念があったんですけど、両方あったから両方成功できたっていう考え方もあるんだなと。だから自分もれもんらいふ塾で毎回いろいろな講師の話しを聞きながらいろんなことに気づかされています。ひとそれぞれいろんな考え方やペースがあるから、一概にペースを落とす必要もあげる必要もないよって、たくさんの経験をされている講師の方々から聞ける時間というのはとてもデザインを志す人だけじゃなくてもとても有意義だと思います。
ーそれこそサザンの件じゃないですけど、好きだからこそできたっていうのもありますしね。
千原 なんとなく焦ったり、こうしなきゃいけないんじゃないかとかっていうのはその時点ではわからないことことが多いけど、結構間違っていたりするから。しなきゃいけないってことは何もなくて、やりたい道の方向にだけ行けばいいっていうところも若いうちはわからなかったりするし。そういうことを教えてくれる大人もなかなかいないしね。学校でも教えてくれないから、伝えていけるといいなと思います。
“子どもには大人になるって面白いよっていうのを身をもって伝えていきたい”
ーちなみに千原さんご自身にとっての原動力ってなんですか?
千原 今はやっぱり子どもが生まれたんで。子どもにどう残していくかっていうことが一番大きいかもです。結構世の中見てると現実的には難しいことも厳しいこともたくさんあって臆病になってしまいがちなんだけども、子どもには大人になるって面白いよっていうのを身をもって伝えていきたいなって思うんですよね。だから僕が一生懸命面白いことをやっていることが一番大事かなって。大人って面白いんだなっていう。生きてく夢とか希望とかっていうのをちゃんと残していくためには自分が100%人生を楽しんでないといけないんじゃないかなとは思っています。
ー何か今新しい挑戦とかって考えられてますか?
千原 映画とかやりたいですね、やっぱり原点なんで。僕ずっと50歳で映画撮るって20歳ぐらいから言ってるんですよ。伊丹十三さんていう一番憧れた映画監督が最初の『お葬式』っていう映画を撮ったのが50歳だったんで、僕それって第二の人生だと思ったんですよね。普通ならもうあと10年で定年みたいな時に新しいことができるって、二つ人生やっているような感じがするじゃないですか。だから僕は映画を撮るっていう人生は第二の人生にしたいなって思ってて。そこまでに今やっていることをどう固めていって残していくかっていう作業を今はしている感じです。
ーありがとうございます。では最後になるんですけど、福岡の読者の方に何かメッセージをいただければ。
千原 意外とこれまで福岡とは縁がなくて、親戚とかもいないし来ることもほぼなかったんですけど、周りのみんなが福岡いいよとかっていう話をたくさん聞いてて、行きたい行きたいっていう感覚の街ではあるんですがなかなかきっかけがね。だからきっかけを作って欲しいので、どんどん呼んでください、仕事くださいって。よろしくお願いします(笑)
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